理想と希望の境界線



トラバチェスは快晴だった。
そこにいるものを、眠りと誘う様な心地の良い風と朗らか日差しの中で少年はまどろんでいた。
彫刻のように美しく、女性とも思わせるようでありながらも大人の魅力を兼ね備えしかし、その幼さの残る顔立ちは行く人々の視線を集めていた。
ましてや、その姿が憂いを含み何処か触れてはいけないようななんともいえぬ雰囲気をかもしでしているのであれば、彼を目にする人々が絵画的な美しさを感じている事であろう。
その空間が、造形された美術品ではないと唯一知らせる手立てである風が、空と同じ色をした少年の髪を撫でる。
…。
………。
……………。
少年は聡明な光を帯びた意志の強い緋色の瞳は、虚ろに空を見詰めていた。
何時の間にそうなったのか、そのぐらいの年頃の子どもが読むにしては不釣り合いな分厚い本は少年が目を通していたページからはるかにめくれてしまっている。
この私立クロメ学院に通学する物ならば一度は、この美しい少年が本を読んだところをその脳裏に焼き付けていたことだろうが、しかし今日は誰も見た事のない模様をさらしていた。
まるで機械か、それしか出来ぬ生物のように本に没頭している。
それが彼の普通であり、日常であった。
その彼が、本の世界ではなく自らの世界に浸っている様はとても異様なモノに思えた。
「珍しいな、物思いにふけっているのか?」
そんな彼に声をかけたのは、まるで少年のような少女であった。
口調や格好だけならば完璧なまでの男ではあるのだが、女性ならではのしなやかな体つきや美麗な声色は少女である事を明確に物語っている。
「…ただ、本を読んでいただけさ。いつも通りの事だろ?」
しばしの沈黙ののちに少年…ランジエが口を開いた。
「いや、そんな事はない。さっきから開かれてはいるが目を落としもせずに読む事は不可能だろう?」
「……いつから?」
ランジエからは何の感情も見えなかった。
「そんなことは、どうでもいいだろう。大事なのは、何故、だ。何故おまえがそうなっているか」
「イエンはっきりと言おう。それは考慮する事ではない。そこに介入することの意味は皆無だと思うのだが」
そういうランジエの事を隣に腰かけたイエンは笑い飛ばした。
「不躾な事を聞いたな。見当は付いているんだ。ボリスというあの男の事だな」
「……」
「否定をしないという事は、肯定したという事だな?」
「…後悔しているのかもしれない。自らの行動に」
その言葉を聞いてイエンは考え込んだ。
ランジエは空に向かって語りかける。
初めから、見当はついていたんだ。彼がルシアン・カルツがいたときから。同士になる事などありはしないと」
ランジエは一人続ける。
「けれども、脆弱な心がありもしない理想が現実となる事を渇望していた。だから、夢うつつをぬかしているんだ…。ぼくの理想は至高であり、珠玉な理論だ。たしかに理想論であるかもしれないが、しかしそれ故に恐ろしい力を持つ。
もともと人間は神などという崇高なる存在を拝している。それは、神という名の絶対的な存在の前で己の脆弱さを知り、そしてすがる。そんな弱々しい人間だからこそ僕は今日は主義を望むのだ。貴族やら血筋やらそんなモノに縛られる理不尽さ…。
ぼくは、自らの理想を彼が理解し共感し、たらればではあるが提携しあえるものだと思いたかったのだ。彼には彼の…いや、彼のような人間だからこそ…理想があり信念があるのだ。…どうかしていた、明白であったのに何を期待していたのか。この程度であるなら理想が本当にただの理想で終わってしまうのではないかと…」
全てを述べると少年は、手元にあった本に逃げ込むようにいじり始めた。
先程までは、存在すらも忘れていた本のページを何枚もめくっていた。
「驚いた」
そんな姿にイエンは驚愕の声を上げた。
「いや、お前がそんな風に自分の理想を語るのも、また信念に対して不安を抱くのも…。そんな事を吐露するなんて、おまえらしくない。
けれども、俺はそれでもいいと思っている」
「何?」
「そうだ。お前がいくら天才で聡明であったとしても、所詮は子供なんだ。だから、子供らしく夢を語ったり、友を思ったりしても不思議はないのだ。たしかに、お前の行動は、私たちの理念から見たら浅はかで愚かかもしれない。
それでもだ、お前のしたことを罵倒する事は俺にはできない。お前がそれほどまでに、彼を思っていたのだからな」
その言葉を聞いてランジエはその瞳を少しだけ、見開いた。
「イエンは甘いな」
「そうかもしれないが、でもそれでも構わないじゃないか。お前にとって、あの男…そうボリスという男は竹馬の友というわけだ。
買い被る訳ではないが、確かにあの男には不思議な魅力と力強さがあった。たしかに、人材として優秀だったかもしれない。だから、お前の犯したリスクも全てが全て愚行だったとは言い切れないのではないか?」
そういって、普段は女らしい事をきらっているイエンは年端も行かぬ少女のような朗らかな笑みを浮かべた。
「イエンは人を慰めるのが下手だな」
「お前は人と付き合うのが下手だ」
そういうと、互いに笑いあった。
 
そうだ、彼にだって自分を誇りそして、他人に受け入れられ評価されるようなものなのかもしれない。あるいは、それとはまったく逆に不評をかうようなことであるかもしれない。
それでも、彼自身はなによりも己を認め高めているのだ。
それは、一目見た瞬間から伝わってきていた。彼は強くなった。誰かの助力によるところが大きいのかもしれないが、そのように手を貸す人間を見つけだし協力し合い支えあえる関係まで持っていく事が出来るか、そこにも一つの才能が必要であろう。
彼は大成するだろ。成長した彼が、自分にとって有害な存在になるかもしれないがそれでも彼が成熟し大物となる事を心から望んでいる。
自分とは似て非なる彼にだからこそ、ここまで惹かれるのかもしれない。
次に会うときは…敵対する存在となるかもしれない。けれども、再び出会う事を心から望んでいた。
再び会えるその日まで。




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