2章 1/1
それは、明らかな拒絶だった。
ゆっくりと、その相貌を開いたのを見た。
私は、あわてて厨房に戻り、ミルク粥をお皿に盛ってきて、
ベットサイドの椅子に腰かけた。
食事を与えようと、あいている手で彼をゆすり起こした時だった。
瞳孔が、かっと見開かれて私を見るなり、私の手を払いのけた。
悲鳴とも、雄たけびともとれるような、張り上げられた音。
反動で後ろにのけ反ると、右手の皿が手を離れて行った。
鼓膜が震え、心まで震えてしまう。
目の前を一瞬だけ、白いご飯粒が舞う。
何が起こったのか、よくわからないうちに
激しい音を立てて、お皿が床に落ちた。
その音に、音を立てた本人が一番の驚きを示した。
私は、ただ茫然と立ちつくしていた。
あの子は、ただ縮こまっていた。
私の体は、全身の毛だけが逆立ちその他は
全くと言っていいほど動いていなかった。
あの子の体は、哀れに思えるほど震えていた。
…そして、私はなんとなく悟った。
私が、怖いのだ。
そりゃそうだ…。
いきなり見も知らぬ人の家にいて、
急に食事を出されたところでおいそれと信じる方がおかしいのだ。
もしかしたら、悪い人かもしれない。
そう怯えてしまっても何の不思議もないのだ。
「……ごめんね。でも、大丈夫よ…作り置きがあるから」
逃げるようにその部屋をあとにした。
それから、私は再びの金切り声に怯えながら
それでもなるべく手早くベッド脇の小さなテーブルに料理を運び、
疾風のごとく部屋から退散した。
たったそれだけのことに、心臓が早鐘のようになっていた。
部屋の前の廊下で情けなく座り込んで、料理を片付けるのを待った。
暫くは何も聞こえなかったが、やがてカチャカチャと皿をたたく音が聞こえた。
ぼんやりと汚れた布団や割れた皿を片づけなければ
と考えながらその音を聞いていた。
どうやって、あの部屋に入ろうかしら…。
そんな事を模索していると、部屋はまた無音になっていた。
食事が終わった合図だと私は確信した。
そっと、部屋をのぞくと、床に空になったお皿が置かれていた。
少しだけ部屋に入るのが怖かったので少ししてから部屋に入った。
どうやら寝ているらしく、部屋に入っても何も起こらなかった。
物音をほとんど立てずに割れた皿を片づけ、汚れた布団を取換えようとした。
かけている布団を、取り上げておきたりしないだろうか…。
先ほどよりも顔色のよい寝顔は本当に可愛らしかった。
目が覚めたらあんなヒステリーを
起こすなんて到底考えられなかった。
なんて、軽率なことをしてしまったのだろう。
そんな後悔をしても仕方がなかった。
そうだ、後悔するくらいなら頑張ってみようそう思った。
そんなやり取りを一週間ほど続けていた。
少しばかりではあるが、彼との距離が縮まりつつあった。
部屋に入ったところで、
震えはするが悲鳴は上げなくなっていたし、
食事をしている際に近くにいても大丈夫になっていた。
余り近くによると、また震えだし大声をあげるが
それも近づきすぎなければ問題ない。
私もなるべく、彼と一緒にいようと、彼の部屋を仕事部屋にした。
初めのうちは、私の様子を見張っていたようだったがそれも暫くするとやめた。
同じように私も、彼のことを忘れて黙々と裁縫をしていた。
初めに比べると随分と、仲良くなったものだと感心してしまう。
そして何よりもびっくりした出来事が起こった。
手にしたスプーンで、空になったお皿を叩いたのだった。
「……もしかして、もう少しほしい?」
そういうと、ちいさくコクンと頷いた。
いつもは、皿を床に置くまでは近づけないのだが、
今はお皿を差し出してきていた。
「…いいの?」
彼は何もしなかった。
しかし、それは了解の合図なのだと私は悟った。
延ばされた手から、そっと皿を受け取った。
カボチャのスープにパンを浸して、パンにスープが馴染むのをみてから彼に渡した。
必死になって、食事をする横で私は独り言を始めた。
「君がそんな事をするなんて、意外だなぁ……
君っていうのもなぁ…。そういえば、名前を知らないわ!
私は、ラフィーナ。で、君の名前は?」
何も聞こえていないかのようにご飯を食べていた。
今まで一度も喋っていないのだ…聞いても無駄だったか。
「……名無し…なんてことはないのよね…。うぅ~ん」
悩んだところで、彼の名前がわかるわけもなく。
「じゃあ、あだ名をつけるわよ?
答えないとひどい名前になるわよ? それでもいいの?」
という実力行使に出ることにした。
でも、やっぱり答えてくれなかった。
「じゃあ、君はなんだか行動も性格も猫に似ているから…
今日から名前は『ねこ』それでいい?」
そういうと、彼はレンゲを落としこちらを向いた。
その瞬間に初日のあの出来事を思い出した。
まずい! とおもって、無意識のうちに身構えたが何も起こらなかった。
でも、その瞳が少しだけ輝いている気がした。
もしかして、気に入ってくれたのかもしれない。そうおもった。
「よろしく、ねこくん」
彼は、頷きもせずにスープを口に運んだ。
ねこくんとは、それ以上仲良くなることもなかった。
食事を運んで、それを受け取る。
それだけだった。
名前を付けた日からは、なにもかわっていない。
距離だって縮まらないし、態度だって変わらなかった。
それでも、あきらめずに同じことを続けていた。
私は仕事道具を手にとって、せっせと仕事を始める。
面白いと思っていたのはいつの事だろう。
単調な作業をとても退屈に感じていた。
裁縫は大好きだった。
でも、なんだか最近は上手くいかない。
だから、とても退屈に思ってしまうのだ。
珍しく客人が訪ねてきた。
繁華街に住む友人だった。
「ねぇ、ラフィーナ」
「何? アン」
「一緒に買い物に行きましょう?
こんな窮屈な家にいるんじゃなくって」
アンはそう云って私の手を取った。
どうせまた、高そうなアクセサリーや小物を買って自慢するにきまっている。
私だって、買えないわけじゃない…買わないのだ。
きらびやかなのは構わないが、法外と思えるような値段のものを
好きこのんで買う気にはまったくなれなかったのだ。
だから、いつも買わないだけ。
それでもアンは買い物をするたびに、それがどんな素晴らしくて、
高価なのかをたっぷりと述べるのだ。
「いいわ…」
「あら? 何が不満なの?」
「不満じゃないわ。でもね、私今…家を空けるわけにはいかないの」
「ふーん」
そう云いながら訝しげな瞳で私を探るように見ていた。
「つれないのね」
そう云いながらアンは出て行ってしまった。
私は、そんなやり取りに疲れてため息をついた。
それをみていたねこくんは、なんだかとても寂しそうに見えた。
彼と仲良く成ったのはある出来事がきっかけだった。
私は何時ものように、仕事道具を取り出した。
ねこくんが来てから、裁縫は面白いようにはかどった。
今手掛けている作品を早く仕上げなければ…。
そろそろ、業者さんが来るころだ。
けれども、焦っても駄目だ。
無理に作品を作っても良い物はできない。
最近はスランプで、ただでさえ満足いくものが作れていないというのに…。
手を抜いた作品なんて売り物にはならないのだけど…。
ぼやぼやとそんな事を考えていたら、
玄関のベルがカランカランと鳴り響いた。
扉を開けたら、業者さんがいて。
私がした簡素なあいさつと同じくらいに簡素に、能書きを垂れる。
不作だ。売り物に…。
その内容はよく覚えていないけれども、
あまり気持ちの良いものでなかった。
自分のこさえたものが貶されていく…。
まぁ、金は払うよ。
それだけは確かだった。それだけで充分だった。
彼が帰ったと同時に、私はその場にくずれ落ちて泣いていた。
哀しかった。
何もかもが厭になって、何もしたくなくなって…。
泣いていた時だった。
私の顔にそっと冷たい手が当たる。
「ねこ…くん?」
「…………」
何も云わないままだったけれども、私には彼の優しさが伝わってきた。
そのときから、ねこくんは私にとても懐き始めたのだった。
←BACK …Wait.
ΘbackoutΘ