子猫のいる生活3

 

一章1/3




それは、ある日のことだった。

今日はなんだか気分が乗らなくて、刺し子用の糸を握ることもしなかった。

「あぁ…駄目。今日は…のらないなぁ…」

とつい声を出して呟いてみる。

そんな事をしたところで、誰も答えてはくれないのだけれども声に出してしまった。

そうなると止まらなくなってしまった。

「…家にいてもなぁ……。あ、そうだ、クロムウェルのおばさんが
なんかお裾分けするって云ってたっけ……行ってこようかな…」

朝から、特にとかしてすらいなかった髪を適当に結ぶ。

何時も通りのおさげになった。

コートを羽織り、外へと飛び出した。
 
 
 

「あらあら、今日も可愛いわね…」

そんなことまで云われて、大好きな牛乳までもらってしまって
私の口角は上がりっぱなしである。

スキップでもしたい気分だけど、そんな事をしてしまったら
せっかくの牛乳がこぼれてしまうので、気分だけを高鳴らせていた。

今日はいいことが起こるかもしれない、そんな気持ちいっぱいだった。

でも、それはすぐに破れてしまった。

私の眼前には正体不明の黒い塊。

それを、見た。

見てしまった。

でも、それもすぐに見えなくなった手で顔を蔽い隠して、真っ暗になったからだ。

暗くなっても、それでも先程目に映りこんだものがわすれられない。

なんだったかは、よくわからなかったが…
それでも私の直感が恐ろしいものだと感じ取っていた。

息が…つまる。ちがう、詰まっているんじゃない…呼吸をしすぎて息ができないんだ。

怖い。怖い…。

幽霊はピーマンと同じくらい苦手だった。

私はさっき、みてしまった…。

あれは……きっと幽霊だ。

そう思うと私の体は強張って、小刻みに震えている。

逃げ出したかったけれども、逃げ出すこともできなくて…。

ただただ、震えていた。

でも、不思議なものでこんなに怖いと思っていても、
それがなんだかとても気になってしまう。

これが、怖いもの見たさという奴なんだろうか…。

そんなことを考えながら、じろりじろりとゆっくりと手を動かす。

…あれ?

よくみると、あれは…化物なんかじゃない?

おそるおそる

それを見る。

「こ…ども……」

それが、子供だと分かった瞬間に私は別の恐怖で包まれた。

ここから、すぐに逃げようと思った。

私は幽霊だって、ピーマンだって苦手だ…でももっと苦手なものがある。

それは、人の死体。

誰だって怖いものだと、私は思うけれども…私のそれは人並み以上だった。

「っ」

私は、一目散に逃げ去ろうとしていた。

けれども、その足をその子供がつかんだ。

死体が…うご…いた……。

違う…ちがう、動いたのなら、死体じゃないわ。

そう言い聞かせる。

そう、これは死体じゃない。そうじゃないのよ。

暗示を何度も繰り返す。

眼前に広がる青空に、精神が飛んで行きそうだった。

上を向いたまま、間抜けに突っ立っている。

牛乳を入れた瓶の重みが、右手かららいやというほど伝わってくる。

こんな重い物を持ったままいつまでも突っ立っていたら、
手が赤くなってしまう…。

そんなのは厭だ。

逃げるのは、この手を振りほどくしかない。

そう分かっていても、また強張った体は素直に動いてくれなかった。

泪がにじんだ瞳でもう一度、その子供を見た。

その顔がとても美しいことに私は気付いた。

その幻想的なまでの美しさは、どんな言葉だって言い表せないだろう…。

どうして、そんなに幻想的に見えたのか、理由はなんとなくわかったからだ。

その生気のない顔立ちは、この世のものだとは思えなかったからだ。

…幽霊と見間違えたのも間違いない。

でも、私からは恐ろしいという考えはなくなっていた。

だって…この子…。

「泣いて……いるの?」

泣いていた。

小さな瞳から、泪を流して、濡れた頬には沢山の泥がついていた。

力なく握られていた手が、足から離れた。

「ちょっと…」

私は、あわててその腕を掴んだ。

その瞬間だった、風の音かと思われるくらいに微かな声が聞こえた。

けれども、私の耳にはきちんと届いた。

「……タ…ス……ケテ……」

助けて。この子はたしかに、そう云っていた。
 
 
 
そうだ……こんなことしていちゃいけないわ!! すぐに駐在さんにいかなきゃ!!

そう思い、その細い腕を上げた時だった。

上着がかぶさっていてわからなかったけれども、
その細い腕に沢山の細長いあざがあるのを見てしまった。

その瞬間に私は、その思いを踏みとどまった。

……やめよう。

この子は…私に助けを求めたのだ。

だから、やめようと思った。

きっと駐在さんにいったら、いけないと思った。

きっとこの子も私と同じで…家族が嫌いなんだ。

「大丈夫だからね…」

そう呟いて、牛乳の入った手提げを地面に置いて、子供を背負った。

その瞬間に少しだけ驚いた。

町医者に行くよりも、私の家のほうが近い…。

多分、このままそこにつれていくよりも、うちに連れて行った方がいい。

麦の詰まった袋のほうが、重たかったからだ。

こんなにも、軽いのに命の重さは伝わってきた。

麦の袋と違い、とても温かく、小さな鼓動が伝わってきた。

「…………がんばれ」

小さな声でそう呟いていた。

それは、緩やかな坂道を登る自分自身にいったのか、
背中で意識を失っているこの子に云ったのかはわからなかった。
 
 
 

家について、直ぐにその子をベッドに寝かした。

子供には似合わない黒いローブを脱がした。

ローブから、輝くような金髪が流れ落ちた。

急がなくてはと思いながらも、
その絹糸のような髪に見とれてしまった。

どうしてあんなにも長いのに、毛先まできれいなんだろう…。

私のくすんだ金髪とは全然違う。

そのまま、細い腕へと視線が移るとそこには、痛々しい痣が残っていた。

こんなにきれいな子なのに…。
それを見た瞬間に、自分のなすべき事を思い出した。



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